新宮町には豊臣秀吉が飲んだとされる井戸の太閤水があります。
織田信長が全盛の戦国時代にあって、今川義元を桶狭間の戦いに勝利し、念願の天下統一目前に明智光秀に裏切られ亡くなりました。その後を継いだのが豊臣秀吉。こうした時代の流れ映画や書籍でいくつも紹介されているので、多くを語る必要はありませんね。
太閤水の歴史
では、太閤水について、新宮歴史館にある資料から一部を抜粋してご紹介しますね。
戦国時代になる1568年(永禄11年)から1569年にここ新宮では立花城をめぐり、中国地方の毛利と豊後(大分)の大友が激しい戦をしています。しかし、毛利は山口県で反乱が起こり九州北部から撤退。その後は薩摩(鹿児島)の島津、豊後の大友、肥前の龍造寺が九州の三大勢力となり、陣取り合戦を繰り返していたそうです。
そして1578年(天正6年)耳川(宮崎県日向市)の戦いで大友は島津に大敗。
さらに1584年(天正12年)、龍造寺が島津・有馬連合軍に破れて戦死。
これによって九州では島津に対抗できる勢力はなくなりました。
そして島津は九州統一をめざして肥後(熊本)・筑後・筑前と北へ攻めていきます。
それを見かねた大友宗麟は豊臣秀吉に島津平定を願います。
その前年には豊臣秀吉は四国を平定しており、勢いに乗っていたので、天下統一のために九州も抑えようと行動を起こします。
その時、筑前(福岡)で島津に従わないのは岩屋城、宝満畳の高橋紹運と立花城の立花統虎の二人です。
そのため島津はこの二人を落とすために北上して1586年(天正14年)7月12日から約半年にわたる激戦の末に岩屋城を落として、その後に立花城を包囲したそうな。
(しかし、158年7月12日とはっきり日付がわかっているということは、歴史資料とはすごいもんだとゴンちゃんは勝手に感動しました。無学なので、知らないことがあったらすぐに僕は感動する単純な人間です)
そしてついに秀吉をこれを良しとせずに毛利勢を援軍として九州に差し向けました。
そして秀吉は1587年(天正15年)3月に九州に入り、5月に島津を降伏させて、6月には博多を復興させるに至ります。
このように豊臣秀吉が島津を降伏させるために九州に入り、その後を追ってついてきた堺の商人で茶湯をたてて秀吉につかえた「津田宗及」という人が掘った井戸が太閤水です。
(現在は井戸は使えませんが蛇口をひねると湧き水が出てきます)
秀吉は博多からの帰途に三代でこの井戸の美味しい水を飲み「誰がこの井戸を掘ったのか」と聞いたそうです。
すると家来の一人が「津田宗及」ですと答えると、では「宗及水」と名付けよと命令したそうですが、村人たちは、秀吉が飲んだので「太閤水」と呼ぶようになったそうです。
この道は唐津街道で、江戸時代大名行列が通る幹線道路でした。
(今ではその面影もありませんが)
三代の他に畦町(今の福津市)にも太閤水があります。このことからも江戸時代前からも幹線道路として利用されていたと思われます。
三代にある太閤水は近所の人や水にこだわる人がペットボトル等持参して組み上げた水を持ち帰っています。
場所は、国道3号線の東側にあり、天神方面からマイカーで行くならナフコ新宮店の裏側に回ってください。
西鉄バスなら新宮中原下車します。
JR新宮中央駅からは徒歩で40分~50分はかかるので、タクシー利用をおすすめします。
周辺は駐車場がありません。
所在地: 〒811-0111 福岡県糟屋郡新宮町三代354
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